2010年01月29日

book recommendations

大学の図書館のコーナーで、4月末までデザイン系の本をお薦めしている。
立命館大学図書館;先生のお薦め本

デザインとは、「<生>の全体性としての生活世界の形成(向井周太郎)」である。
それは決して、モノゴトをよく見せ・よく売るための、色やかたちの操作方法にのみ偏ったはなしではない。
「生」から「死」までの生活世界すべてを対象とする、デザイン本来の理念と思想に触れてほしい。

OK,何の問題もない。
posted by kazar at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評

2007年11月11日

走ることについて語るときに僕の語ること

村上春樹 文藝春秋 2007

自分について語ること

学生を相手にする職についてから、もうすぐ10年になる。
これまで多くの場面で、僕という自分について語ることを要求されてきた。
多くの人の前で、人生相談の一端で、飲み屋の一席で。
でも、どうにも慣れることができない。

自分について話した後はいつも、胸がいたい。

いろいろな場面の文脈で、自分についてのエピソードを加えればそれでいいだけである。
つまり、一人称で語る部分を話に盛り込めば、聞き手は親近感を得るというテクニック。
そこで、自分について正直に語ることは必要とされていない。そんなことはわかっている(つもり)。

一方で、聞き手が求めているのは、そんなテクニックまみれのコンテンツだけじゃない。「正直」に語っているかどうかがはかられてもいる。でもね、正直でも、正直じゃなくても、そもそも自分について自分が語ることなんて可能なんだろうか。

いつも胸がいたいのは、自分について語っていることのこの違和感を、うまく自分で片付けられないからだろう。

ひとつの風景の中に他人と違った様相を見てとり、他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶことができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。
(中略)
僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとってひとつの重要な資産なのだ。心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなくてはならない当然の代価である(P35)。

自分について語るということは、自分の世界との対峙のしかたについて語ることなんだろう。同時に、僕が僕の世界に対して支払ってきた代価についても、正直に語ること。

そして、その語り自体が、先達の影響を多大に受けているという自覚。今僕がこう感じることは、僕のオリジナルの感性ではない。それを、ありきたりの言葉を組み合わせて、話の途中で噛みながら、拙く表現する。そういう僕という表現フィルタを通すことで、僕自体の考え方が形成される。

だから、僕は語っていく必要がある。胸をいためながらも。

OK,何の問題もない。

posted by kazar at 23:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評

2007年09月10日

恋する水門

「恋する水門」 佐藤淳一 BNN 2007



僕の師匠である、jsato大先生の写真集。

帯に明記されているように、「世界初」の「水門」の写真集である。

まずは黙って、素直に、写真と対話するために、そこに収められた水門たちをじっと見つめる。

それぞれの水門から、いろいろなイメージが喚起される。

別の画像・視覚的なイメージを呼び起こすもの、聴覚・音楽的なもの、触覚・肌触り感、嗅覚・味覚を喚起するもの、さまざまである。
そしてなぜだか、そこに沸き上がるさまざまなチャンネル(視覚とか聴覚とか、ね)の感覚を、「言葉」に収斂させたくないと思う。「できない」のではなく「したくない」のである。

他人に開かれた「言葉」にしてしまうと、僕が感じたことはなんだか違うものになってしまいそうだから、である。
それらの感情はなぜか他者へのコミュニケーションを渇望しない。


人それぞれの水門との過ごし方があってよいと思うが、共通しているのは「一人になりたい」という願望が根底にあることだろう(p142)。


そう、「一人になりたい」と思ったのである。
まんまと僕は「水門」にはまってしまったのかもしれない。

「恋する」とは一人称の感情である。よきタイトルであると思う。

サイト→Floodgates[水門]

posted by kazar at 22:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 書評

2007年08月30日

「デザインのデザイン」

原研哉 岩波書店 2003

単に読み進めれば、「簡潔にまとめられたデザイン史」と「著者の実践紹介」という内容に読めるのかもしれない。

しかし、本書が「デザインのデザイン」というタイトルであることを忘れてはいけない。
著者は「いったい[何を]デザインしてきたのか?」という観点から本書を読み返せば、その内容解釈はずいぶん異なってくる。

デザイナーの仕事には、実際にデザインを実践するという側面だけではなく デザインというフィールドを社会の適正な場所に再配置していくという側面がある。(p202)

デザイナーがデザインすべき対象は、デザインという行為そのものにあると著者は言う。このことを自覚しているデザイナーは、たぶんそう多くない。

あるモノやコトについて考えたり作ったりするだけでは、デザイナーはその職分の半分しか実践していない。その行為自体がどういうことかを常に考え、行為自体の意味を定義し、社会に定着させてはじめてデザイナーの仕事をしたことになる。

単にキレイでカッコイイものをつくるのなら、PCのソフトを使えばいまどき誰にでもできる。しかし、「デザイナー」はそのデザイン行為をも自らデザインしていく。そこに大きな違いがあるといえるんだろう、たぶん。



posted by kazar at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評