2008年12月31日

ダラスへは行かなかった。

今年もあと数時間。

家の大掃除には未だ手が着かず。でもそれよりも、まず頭の中を大掃除せねば。いろんなものがトッチラカッタママである。全然何も片付いていない。うーん。

光陰矢の如し。

あっと言う間の一年だった。
でも、一年前のことは、はるかむかしのように思えて、全然覚えていない。矛盾してるね。日常はそんなにキレイに整合していない。

昨年末は何を考えていたっけ、と思いエントリを見返してみる。

来年末はダラスに行くことになる

そうだそんなことを書いていた。

ダラスには行かなかった。

何かを求めるときに、なぜか遠くの見知らぬ土地にその何かを求めてしまう。
隣の芝生は青い。

振り返れば、今年も多くのことを求めた一年だった。
それなりの成果を得たものもあったけど、多くはまだ進行中であり、乗り越えるべきたくさんの壁がたちはだかっている。課題は山積みである。

遠きに行くに必ず邇きよりす。

多くの課題に向かい、まずはしっかり落ち着いて自分の足元を固めるべきだろう。
ブレずに、僕ができる身近なことをしっかり行うこと。

頭のなかは全然片付いていない。
まずは手がつくところからやるしかない。

みなさん、今年も大変お世話になりました。
良いお年を。

OK,何の問題もない。


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2008年12月26日

PBL or not ?

某メールマガジン記事のインタビューを受ける。
「大学におけるプロジェクト学習の実践」についての取材。

「プロジェクト学習(PBL: Project Based Learning)」とは、学生たちがグループワークによって主体的に課題を探求する学習方式のことである。

僕はデザイン系出身なので、このスタイルを特に「特別なもの」と認識していなかった。デザイン系教育では昔からお馴染みのスタイルである。
自分の授業でも、これまで随分このようなスタイルを採用してきたが、それが「プロジェクト学習」という名前であることを認識したのは、そんなに遠いはなしではない。

今回はその実践についてのあれこれを語らせてもらった。
まとめられた記事は、来月配信される予定なのでまた紹介します。

「プロジェクト学習」が注目されていること。それはいい。
ただ、そこに何とも言えない違和感・気持ち悪さを感じずにいられない。

「プロジェクト学習」について語る立場であるからこそ、注意が必要であると感じる。

僕の認識違いなのかもしれないが、「プロジェクト学習」が注目されていることの背景に、従来の座学講義の行き詰まりとアンチテーゼが大きく立っていないか。座学講義の行き詰まりを解決するこたえとして「プロジェクト学習」となっていないか。

僕はそれは違うと思う。いや、そう語ってはいけないと思う。

確かに、教員が一方的に話し、学生は黙って座って聞くだけの講義スタイルには行き詰まりがあるかもしれない。その行き詰まりをどうにかする必要性は感じる。ただそれに対する唯一の解答が「プロジェクト学習」ではない。何ごとも2項対立にしてしまうのは非常に危ない、と。

「プロジェクト学習」は、数ある教授・学習方式のひとつである。だから、僕は大学の授業すべてが「プロジェクト学習」になればよいとはこれっぽっちも思っていない。

大学では、座学講義、プロジェクト学習以外にも、多様な教授・学習スタイルが行われることが理想だと思う。そして僕は、その多様な実践を行っていきたい。年の瀬。来年への課題がひとつ増える。

OK,何の問題もない。












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2008年12月09日

Re: OK,何の問題もない。

大平智弘先生(武蔵野美術大学教授)がご逝去された旨の連絡を受けた。突然の師の悲報に言葉をなくす。

大平先生に出会わなかったら、僕はいまこうして大学教員をやっていなかった。
こんなに酒をのむこともなかった。宴席に出かけていくことの意味と価値もきっとわかっていなかっただろう。

研究と教育について、「デザイン」という考え方について、「生き方」について本当にたくさんのことを教えていただいた。
いや、正確に言えば[語って]いただいた。僕はそのお話しを聞いているその時には、その意味や価値や本質をわかっていなかったように思う。

でも、それから自分が動き、自分で考えはじめたその時に、大平先生から[教えていただいた]ことに気づいた。

恩返し。

それも、大平先生から教えられたことである。
恩返しとは、僕が先生から教えていただいた多くのことを、僕の後世に伝えられてはじめて成し遂げられる。
僕はこれから、先生にうまく恩返しできるだろうか。いや、しなければならない。


OK,何の問題もない。

僕が[勝手に]大平先生から借用していることばである。ご本人に承諾を得ていない。でも、大平先生にお伺いをたてるのは無意味である。きっと言うことは決まっているから。

いや、聞くことによって、自分はなにもわかっていないことを、逆に露呈させてしまう。

だって、「自分で考え、自分で判断すること。」
それが、「OK,何の問題もない。」の意味であるから。

でも、いつか、そうまだ先に、僕がそのことばを背負い何かを成し遂げた成果を持って、大平先生にお話しするつもりだった。
毎日自分の小ささに打ちのめされている今はまだ、報告できないと思っていた。

そしてこう言ってもらうつもりだった。

「OK,何の問題もない。」

聞けないまま、先生は逝ってしまった。


これまで本当にどうもありがとうございました。どうか安らかにお眠りください。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。

僕は、大平先生に教えていただいたすべてのことに応えるために、[勝手に]このことばを背負い続けることにさせていただきます。

OK,何の問題もない。




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2008年12月03日

メジャーなシンクロニシティ

今日読んでいたマンガに、昨日僕がエントリした内容と同じことが書いてあった。
嗚呼、何たるシンクロニシティ。

小さな失敗(ミス)を恐れ、
大きな志を失っていると─

なぜちっぽけなミスを恐れ、今から小さくまとまろうとするのか、

つまずいても、何度でもはい上がればいい。

そこに“動機(モチベーション)”なんて特にいらないじゃないか、

(満田拓也,MAJOR 69巻,2008)


OK,何の問題もない。


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2008年12月02日

equal oppotunity or not ?

「先生の授業スタイルって、結果平等ではなくて、機会平等を貫いていますよね」
って、この間ゼミ生に言われた。

その時は、あーそうか、と思ったのだが、何だかずっとひっかかっていた。

「結果平等ではない」ということは、その通りだろう。
どの授業もその成果(ゴール)を一様に設定することはない。
好きなだけ、自分の思うだけ学んでほしい。僕はそれを阻害しない。

でも、「機会平等である」だろうか?
みんなに一様に機会を提供しているだろうか?

僕は、自ら何かを求める人には協力を惜しまない。
自ら学ぼうとする人には、その学びの機会を与えることに協力を惜しまない。

でも、機会を与えるのは、「みんな一様に」ではない。
ということは、やはり「機会平等」ではない。

そこには「自ら何かを求める人」というフィルタがある。

自ら何かを求めるということには、強い動機付けが必要だと思いがちである。

動機付け=モチベーション。

僕はモチベーションということばが好きではない。
いや、正確に言うと、モチベーションということばが前景化するのが好きではない。

自ら何かを求めるということに、動機付けなんてそもそも必要だろうか?
ただ好きだから、ただ興味があるから、でよいのではないか。
そう、そこに結果が伴わなくともよい。失敗したって、何のかたちにもならなくたって別にいいじゃないか。
小さなことにビクビクして、何にも手をつけられないでいる、というのが一番もったいない。

好きなだけやってみたらいい。

どうにもならないことなんてない。大抵の場合はどうしていいかわからなくなっているだけだ。
(吉田聡,スローニン,1987)

どうしていいのかわからないことを、一緒になって悩むことには、僕は努力を惜しまない。

OK,何の問題もない。
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